=宮大工・窪田文治郎=
前回から「愛媛の歴史的建造物」
と題して、中予地区を中心に素晴ら
しい古建築を分かりやすく、こんな
見方もあり面白い、という視点で紹
介させていただいています。今回は
愛媛県の、主に中予地区で大正期か
ら戦後にわたって多くの作品を残し
た宮大工-窪田文治郎をご紹介した
いと思います。
窪田文治郎の生涯
明治23年( 1890) 8月に、久米村(現
松山市)鷹子に生まれ、昭和50年(19
75)に老衰で86歳の生涯に幕を閉じま
した。窪田家は祖父の時代から続く社
寺建築棟梁の家柄で、父-岩五郎の次男
でした。長男の鉄太郎も大工でしたが、
素行がよくなかった面もあり、文治郎
が跡取りになったとのことです。彼に
は子どもがなく、同性の窪田冨雄を養
子に迎えたいと依頼したこともあった
そうですが、実現はしなかったそうで
す。冨雄の息子・秀樹氏は父の跡を継
ぎ、窪田冨建設の社長として後進を育
てています。
兄の鉄太郎には橘正一、大西集雄(よ
せお)、田中量などの弟子が居ました。
文治郎は橘家の風呂をよく借りに行き、
出てから長く話し込み、奥さんの貞子
が何度も呼びに行ったというエピソー
ドもあります。大工以外にも左官・屋
根師の参川角助、文治郎と奥さんの貞
子瓦師の篠浦、建具の石田など、多く
の職人たちが彼を盛り立てたそうです。
文治郎の人柄
いろいろな人の話を総合すると、彼の
人柄としてまず頭に浮かぶのが「けち」
ということです。仕事しか楽しみがな
い、とだれの目にも写るくらい他の事
には興味を示さなかったそうです。酒
はおちょこ2 ~ 3杯、テレビや映画も見
ず、将棋や碁もやらなかったそうです。
庭の広い家だったが電灯が一つしかなく
薄暗かったそうで、話に行ってたまに淹
れてくれたお茶も、お湯にちょっと色が
付いたくらい薄かったとのことです。
ある時、若い連中がお金を出し合って
テレビを進呈しようと提案した時、喜ん
ではくれたのですが、電気代は誰が持っ
てくれるのかと言って、彼らを困らせた
そうです。
それくらい質素だった彼は、多くの富を
残したかというとそうではなく、亡くな
ったときに残っていた物は、多くの貴重
な書籍のほかは、砂糖(当時は貴重品! )
のみであったそうです。文治郎に頼むと
「いいものができるが銭がかかる」と言
われることもあったようですが、「寺院
は仏、神社は神が鎮座ましますのにふさ
わしいように」と自分の事は切り詰め、
いただいたお金の総てを作品に充て、堂
宮の造営のみに生涯をささげたと言って
も過言ではないと思います。
最後に、文治郎が信念としていた「三惚
れ」という言葉をご紹介します。第一に
「郷亠」に惚れる事、第二に「仕事」に
惚れる事、そして第三に「家内」に偬れ
る事、だそうです。
この言葉は彼の人柄をよく物語っている
ばかりでなく、「愛媛」で建築に携わっ
ている私たちにとっても深く考えさせる
ものがあると思います。
文治郎の作品
彼の作品は久米地区を中心に、道後、久万地区に
多く、松山支部管内の東温市にも見られます。文
化財の修理も手掛け、医院建築、料亭や旅館建築
など社寺建築以外の作品も見られます。代表的な
ものをいくつか挙げておきます。彼の作品には造
型に勢いがあるとよく聞かれますが、建てた時の
年齢を頭に置いて見るのも、面白い見方かもしれ
ません。
・湯神社(松山市道後冠山)
拝殿及び結婚式場:昭和3 7 ~3 8年( 7 2才)
・繁多寺(松山市畑寺)庫裏・昭和5年( 4 0才)
大師堂:昭和1 0年( 4 5才)
山門:昭和1 5年( 5 0才)
→平成9年頃建替え(元に倣って)
本堂:昭和3 3 ~ 3 4 年( 6 9才)
鐘楼堂:同左→平成1 8年建替え
・日尾八幡神社(松山市南久米町)
拝殿:昭和27年( 62才)
鳥居:昭和33年( 68 才)
神門:昭和3 9年( 7 4才)
・浄上寺(松山市鷹子町)
二王門:大正7 ~1 1年( 3 2才)
・大宝寺(久万高原川菅生)
二王門:昭和3 0 ~ 3 1年( 6 6才)
総門:昭和3 2 ~ 3 3年( 6 8才)
客殿・庫裏、鐘楼堂:昭和3 6年( 7 1才)
・岩屋寺(久万咼原町七鳥)
大師堂:大正6 ~ 9年( 3 0才)
本堂:大正1 5 ~昭和2年( 3 7才)
山門:昭和9年( 4 4才)
鐘楼堂.昭和2 7年( 6 1才)
・一吉井神社(東温市井内)
神殿及び拝殿:昭和4 5 ~ 4 6年( 8 0才)
松山支部 支部長 花岡 直樹